2006年07月13日
なぜ義務教育について語れるのか
[教育全般 ]
教員免許制など教育に関しては、国会から居酒屋まで議論はあらゆる所で行われている。国の根幹をなす重要な議論であるから、表面をなめるのではなく、深く行ってほしい。
この教育に対する議論についていつも不思議に思うことがある。それは、なぜいろいろな人が教育について語れるのかということだ。
何かに意見を述べるのであれば、現状をしっかりと分析して、それに合わせた意見が必要になる。事実に基づかない議論をしていては、批判のための批判にはなっても建設的な方向には進まない。何の病気かわからないうちに腹を切られたのではしゃれにならない。まずは、病気という事実を捕まえなければならない。同様に、会社の不満であれば社内での出来事をベースにすべきだ。きっとこうなっているはずというような、憶測で語るべき話ではない。
それが国の根幹をなすのであれば、なおさらだ。
しかしながら、教育に関する言説のうち、こうした事実に基づいた物はあまりに少ない気がする。たとえば、義務教育についての意見であれば、当然現在の義務教育の現場を見て、体験して、それからの意見でなければ、それは前提自身に疑いがかかる。
僕の場合であれば、小学校も中学校も10年前のものしか知らない。つまり、自分が経験してきた小学校や中学校だ。しかしながら、現在の姿は異なっているはずである。少なくとも、まったく同じだということはありえないだろう。10年はあまりに長い。これだけをベースにしたのであれば、それは想像の域をでない。
一方で、現在義務教育について何らかの発言をしている人たちは、現在の義務教育を何らかの形で観察したのだろう。何らかのタスク(仕事など)を抱えた人たちが義務教育を見ているのだとすれば尊敬に値する。
しかし、もし、古い自分の経験と、確からしいが確かでない情報を元に義務教育に対する意見をしているのであれば、その意見は、信頼に値しない。
僕は、現在の義務教育現場を知らない。ゆえに、僕は義務教育を語ることはできない
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